ニコライ・ネフスキー

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ニコライ・ネフスキー

宮古島市の漲水御嶽の近くに、「ネフスキー通り」 と呼ばれる長さ約 90mの石畳の坂道があります。 石畳の路を上っていくと、通りの終わりの右側にネフスキーの宮古島についての研究を称える石碑、「宮古研究の先駆者 ニコライ・A・ネフスキーの碑」 があります。 石碑があるだけでなく、通りの名前にもなっている ニコライ・A・ネフスキー (Nikolai Aleksandrovich Nevsky) はどこの国の人で、宮古島にとってどのような働きをした人なのでしょうか? ニコライ・ネフスキーとはロシア人の言語学者で、日本旅行から後に留学し、宮古島の方言のほか、アイヌ語などを研究しました。特に宮古島方言については第一人者とのこと。それでこの顕彰碑が建てられたそうです。 ネフスキーは生涯を通じて宮古島にこだわり続けたのですが、それはこの島の文化風習が、日本のどこよりも古来の伝統を維持していたからだと記しています。 言語学者でもあったネフスキーは、宮古島の古語と日本の古語がによく似ていることを指摘し、特に宮古島の人々が虹をティンパウと呼んでいたことに着目しました。もともと宮古島ではティン(太陽)を母神、パウ(蛇=ハブ)を父神とする伝説があり、その二つが組み重なり立ち上るものが「天の蛇」、すなわち「虹(にじ)」というわけのようです。 そしてネフスキーはこの「蛇」と「虹」という漢字の類似性に着目し、日本語の「虹」が宮古島の「天の蛇」に由来すると結論しているのです。 15年に渡る日本滞在後、ネフスキーはソビエト連邦共和国となった祖国に帰国。しかし1937年、日本のスパイである疑いを掛けられ、国家叛逆罪で銃殺刑に処されました。 ニコライ・ネフスキーは方言に興味をもって調査した研究者ですが、宮古島と世界を繋いでくれた功労者でもあります 漲水御嶽や宮古神社など周辺の見所に行った際に、興味のある人は寄ってみてください。 宮古島の歴史を感じることができると思います。

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